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BK-1

Author:BK-1
趣味日常の事から時事報道等手広く、感じた事思った事を「お決まりのフレーズ」を交えて書かせてもらってます。

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たまたまTVで見た「ぶたがいた教室」
クラスで育てた豚のPちゃんを食うか、食わざるべきか
子供たちが議論を重ねるのであるが。

単なるぶたであるなら食らうことは容易であったであろう。
食らう対象として認識していれば尚のことである。
イチ視聴者である自分はまさにそうであり「美味そうに育ったものだ」というような
感しか持ち得なかった。劇中に登場する子供達とは隔絶の感があることは否めない。

さて何故に豚を食うこと、つまり殺すことが劇中の子供達が出来なかったのであろうか。
結論から言えば「Pちゃん」と名づけてしまったからである。

名が無く豚のままであればそれは何れ食らうための対象でしかなく
その成長過程は植物の成長となんら変わらないものとなってしまう。
トマトを収穫できなくなるやつはいない。育てば収穫時、食べごろと思うだけである。

名づけた時点により豚にはある種の霊性、魂を持つものへと昇華したのではなかろうか。
そして子供達は無機質な機械的唯物論の立場をとることが実質不可能になったと
言わざるをえないのである。

生き物、実相に関しての認識として
ルドルフ・シェーンハイマーが昭和12年に、ねずみを使った実験によって
生命の固体を構成する脳、其の他一切の細胞とそのDNAから、これをさらに構成する
分子に至るまで、全て間断なく連続して物質代謝がなされている事を発見した。

生命は「身体構成成分の動的な状態」であるとしそれでも平衡を保っているとするのである。
機械的唯物論からすれば、豚の身体が短期間のうちに食物摂取と呼吸などにより
全身の物質代謝が完了して全身の細胞を構成する分が全て入れ替われば、
物質的には前の個体と全く別の個体となり、もはや別人格(Pちゃんは豚だがW)に
なるはずである。しかし、それでも「人格(豚格?)の同一性」は保たれている。
PちゃんはPちゃんのままであるのだ。
このことは機械的唯物論ではもはや説明しきれないのである。

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